本研究は、沖縄県民が近現代において国民という枠組みのなかに置かれながら、「他者」の文化を持ち、「自文化」と「他文化」をどのように実践してきたのか、芸能研究の側面から解明することを目的としている。本研究では、それらを「エイサー」と「盆踊り」に置き換え、2つの芸能が沖縄県民に果たしてきた役割を明らかにする。 平成31年度(最終年度)は、これまでの調査研究で明らかになった、戦前と戦後では盆踊りの定着に連続性がないことや戦後は寺院や琉米文化会館(那覇・うるま市・名護市)等を中心に定着してきたことを踏まえ、特に琉米文化会館がもつ社会的な機能等と文化の関係性を検証し、研究発表(日本音楽学会第70会大会)を行った。 戦後の沖縄では、琉米親善の名の下に住民緩和政策が行われ、いわゆる「日本風な」文化的営みを排除されたとされている。例えば、琉球列島米国民政府渉外報道局が1957年から72年まで発刊した『今日の琉球』も例外ではないはずなのだが、記述を分析した結果、米国にとって「盆踊り」と「エイサー」の実践に文化的な境をほとんど見出してはいなかった箇所が多く散見された。このように実際は統治政策に大きな支障が及ばない限りにおいて、日本の文化的な実践が沖縄の中では許容されてきた(駐留の婦人も含む)。エイサーと盆踊りの芸能に限って見れば、沖縄と本土の文化が交差する場を米国側が結果的に提供していたということになるだろう。 その結果、地域によっては、盆の時期にエイサーではなく盆踊りを推奨した地域も現われることとなる。これを契機にして現在まで盆踊りを地域の盆行事としている地区は聞き及んでいないが、県内各地で根強く盆踊りが開催されていることから、戦後のそれとの連続性も視野に入れながら現在の沖縄と盆踊りの関係性を整理してみる必要性がありそうだ。
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