本令和元年度は、主に「清代内・外モンゴル間における盟、旗の牧地境界画定経緯」といった課題に取り組んだ。具体的には、モンゴル国立中央文書館等所蔵のモンゴル文、満洲文公文書等の一次史料を基に、トシェート・ハン部左翼後旗とウラーンチャブ盟オラド中旗間、トシェート・ハン部左翼中旗とシリンゴル盟スニド右旗間、トシェート・ハン部左翼後旗とアラシャ・ウールド旗、ウラーンチャブ盟オラド中旗間等々の牧地紛争の事例を詳細に分析し、その盟や旗の牧地境界画定過程を検証した。 その結果、以下の知見が得られた。まず、雍正13(1735)年に理藩院によって派遣された内モンゴル帰化城初任都統ドンジは、外モンゴル・トシェート・ハン部左翼中旗とウラーンチャブ盟オラド中旗、ハルハ右旗との牧地境界を、ソランギン・ウベル・ホボトルという地で決定した。また、トシェート・ハン部左翼後旗とウラーンチャブ盟オラド中旗間の牧地境界は、乾隆50(1785)年に牧地紛争処理のため、理藩院の指示下で両盟長が33基のオボーを設置することによって画定された。後の道光15(1835)年にトシェート・ハン部左翼中旗とシリンゴル盟スニド右旗との牧地境界は、双方間の牧地紛争処理のため、勅で遣わされたチャハル都統によって建てられた全9基のオボーで画定された。トシェート・ハン部左翼後旗とアラシャ・ウールド旗、ウラーンチャブ盟オラド中旗間の牧地境界は、咸豊3(1853)年に嘉慶10(1805)年の画定地に3対のオボーを新たに設置する形で画定された。ここから、清代内・外モンゴルの隣接地における牧地境界は、雍正13年から画定されはじめ、後の牧地紛争の処理や外モンゴル・トシェート・ハン部諸旗の牧地境界画定事業に伴って、オボーが設置される等、その画定事業がより完備されていったことがわかる。
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