本研究課題の1つの柱である,錯誤に基づく被害者の同意の有効性を中心に,ドイツ法における議論をも参照しながら研究を進めた。 いわゆる法益関係的錯誤説は,少なくとも法益関係的錯誤がある場合には同意は有効性以前にそもそも不存在であるとの限りで,広く支持されているように見られるが,余命の長さに関する錯誤や毀損される財物の価値に関する錯誤などを考えると,法益関係的錯誤と同意の不存在は厳密には一致しないことが確認された。他方で,法益関係的錯誤がなくても同意が無効とされるべき場合があるとの点は,緊急状況の錯誤や利他的目的の錯誤の事例をもとに既に種々議論されているとおりであり,法益関係的錯誤説の意義と限界が確認された。 また,同意の有効性については,法益関係的錯誤とは別に,任意のないし自由な意思決定があったか否かを問う説も有力であるが,それを被害者本人の価値判断を基準にして主観的に判断するのか,それとも何らかの客観的基準をもとに判断するのかにつき,諸見解の対立がある。後者の例として,得られると誤信した利益と実際に喪失した利益との比較衡量によるものが有力であるが,不合理な決断であっても被害者本人の自己決定を尊重するという同意の基本思想と相容れないように思われ,しかし他方で,前者によれば同意を無効とする範囲が際限なく広がってしまうとの問題がある。 本研究では,同意が被害者と行為者との間の個別的なコミュニケーションであるとの理解のもと,被害者の主観を基準としつつも,行為者側の事情をも考慮に入れて,被害者の錯誤が行為者の欺罔により惹起されたのか,それとも被害者が自ら錯誤に陥ったのかにより区別すべきではないかと考えた。本研究の成果については,刑法学会の研究報告で発表するとともに,論文として公表する予定である。
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