本研究の目的は、明治中期から大正期にかけての大阪市政を対象として、『大阪毎日新聞』『大阪朝日新聞』および『大阪新報』が、地域政治(都市政治)にかんして、如何なる政策論を展開していたのかを明らかにし、それにより、個別の政治勢力の利害や意見(プライベート・インタレスト)が如何にして公共性をもつに至るのか(ローカル・インタレストとして成立するのか)という点を、考察することにある。 当該年度においては、新聞記事のリスト化に加えて、各社の経営状況及び人的ネットワークの再編状況について検討を加えた。これにより、『大阪毎日』『大阪朝日』いずれも、明治30年代初頭には経営体制の刷新が図られて(あるいは強いられて)おり、それは両社に固有の事情によるものというよりも、大阪市政財界の刷新過程の一環だったことが明らかになった。明治30年代には大阪市政財界全体の刷新がはじまっており、その結果、いわゆる予選派による合意形成が困難になりつつあった。こうした政治状況の不安定化が、メディアによるインタレストの再構築が必要となった外的条件であることが指摘できる。 他方で、『大阪毎日』『大阪朝日』両紙は、外交論のみならず、都市政策についても、明確な対比をみせていることも、明らかになった。こうした都市政策についての基本的な相違は、しかしこの時点では、市政構造そのものを揺るがすことにはならない。明治末にむけて市政構造が動揺していくなかで、両紙および『大阪新報』が展開した政策論について考察することが今後の検討課題となる。
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