研究課題/領域番号 |
16K21302
|
研究機関 | 大分大学 |
研究代表者 |
雪丸 武彦 大分大学, 教育学研究科, 准教授 (60614930)
|
研究期間 (年度) |
2016-04-01 – 2020-03-31
|
キーワード | 養護学校 / 学校設置 / 病弱教育 / 戦後教育史 / 障害児教育史 |
研究実績の概要 |
本研究は白野江養護学校の戦後史、なかでも同養護学校が「養護学校→小学校→養護学校」と紆余曲折した要因や、その中での教育の変遷を明らかにすることを目的としている。 本年度は門司市立光陽養護学校が,五市合併により北九州市立門司養護学校へ移り変わる昭和32年~昭和38年までのプロセスを、養護学校の創立記念誌,門司市議会議事録、門司市教育委員会議事録,門司市の予算書、決算書、新聞資料等から明らかにすることにした。このため、北九州市立文書館や中央図書館に行き、上記資料収集を行った。この際,合わせて当時の学校管理規則等の法令集も収集することができた。 これらの資料から、昭和32年に市立光陽小学校から市立光陽養護学校に変化して以降,昭和35年度に初めて卒業生1名を輩出したことが判明した。一方,6年生の他の児童は原籍校に帰り,卒業したことが判明した。このことから,①原籍校から一時的に離れて児童が就学をした戦後の門司市独自の養護学校の制度と,②公立養護学校整備特別措置法により正式に養護学校となって生まれた制度の2種類が存在していたことが判明した。 また,養護学校では昭和36年まで助教諭資格の教員が寮母として昼夜勤務を行っていたが,昭和36年に病弱者(身体虚弱者を含む)のための養護学校の設立が明確に位置づけられることになり,これとともに昭和37年に寮母が正式に発令され,養護学校に勤務することになった。こうして戦後養護学校の設置以降続いていた児童と教員との長時間の共同生活という特徴は失われることになった。 以上のように,養護学校に関する法律の整備がなされるとともに,独自の制度が消失する一方,一部の制度は戦後以降の特徴を残していた。
|
現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
3: やや遅れている
理由
門司市議会議事録その他の関係する資料が膨大であり,研究期間中に収集を終えることが困難であったため。また,当時の養護学校の複数の教職員に対してインタビューをする予定であったが,事情によりインタビューが困難になったため。
|
今後の研究の推進方策 |
平成30年度中にできなかった当時の養護学校の複数の教職員に対してインタビューをできるよう、現在の特別支援学校との連絡を積極的に取るとともに,退職管理職・教員のネットワークを活用していきたい。
|
次年度使用額が生じた理由 |
所属先の改組のタイミングと重なり,それに関係する会議等が増加し,また,家族に対する介護等のために,予定していた研究時間が大幅に削られ,研究遂行及び予定していた学会発表や論文投稿が困難になった。これにより,使用額が生じることとなった。 次年度は10月頃を目途に資料収集やインタビュー調査を終了させ,残りの期間で研究成果の総括を行うこととしたい。
|