研究課題/領域番号 |
17083037
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研究機関 | 早稲田大学 |
研究代表者 |
近藤 一成 早稲田大学, 文学学術院, 教授 (90139501)
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研究分担者 |
森田 憲司 奈良大学, 文学部, 教授 (20131609)
櫻井 智美 明治大学, 文学部, 専任講師 (40386412)
鶴成 久章 福岡教育大学, 教育学部, 教授 (20294845)
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キーワード | 科挙 / 士人 / 登科録 / 墓誌 / 黄震 / カルルク / 臨海 / 皇明貢挙考 |
研究概要 |
2008年度は、宋元と元明交替期の明州寧波士人社会について集中的に検討した。モンゴル政権下の明州に生きた士人の出処進退を史料批判すると「南宋に殉じた」という後世の評価が一面的であり、実際には現実と折り合いをつけつつ生き抜いた士人たちの実像が浮かび上がる。また関係する墓誌が描く、南宋滅亡後に没した黄震と王應麟の子と孫たちの生き方からは、科挙経由の出仕という宋代士人に重くのしかかっていた圧力からむしろ解放され、父や祖父の偉大な著作の整理・刊行に力を注ぐ姿が明らかとなる。その代表作である『玉海』の場合、元朝は慶元の諸県学・書院に費用を分担拠出させ刊行を援助している。慶元に限れば、南宋学術・文化の後世への継承に元という時代は大きく貢献したというべきであろう。さらに延祐年間から復活した科挙は、慶元では5名の進士と9名の郷試のみの合格者を出し、しかもそのうち進士は3名が、挙人にも1名のカルルクがいる。対象を広げ元朝のカルルク人官僚100名弱の悉皆調査を行った結果、かれらにとり慶元は本貫の南陽より出仕しやすい状況があったことが分かり、色目人として漢文化を体現する人物が出現していたことにも注意する必要がある。 一方、天一閣碑林に現存する元の「慶元路学洋山砂岸復業公据」碑、および『江蘇通志稿』の「鎮江路儒学丹徒県胡鼻庄学田訴訟関係石刻」4本を分析すると、慶元路と鎮江路両学の学田訴訟が対照的な経過をたどったことが明らかとなり、その背景には元の両地支配勢力である慶元の沂王府、鎮江の鎮南王の地域支配の差異、それに連動する各儒生の対応の違いが想定できる。また地方志と並び天一閣蔵書の特色である明代登科録についても、そこから知りえる元朝士人の状態、登科録そのものについての精緻な分析が行われた。
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