本研究は、子どもたちの「身体活動」が、「地域」という場において「総合的な身体、および身体運動の学習」となるための条件を検討することを目的とした一連の研究である。今回の研究では、人間の「生成」にとって重要な「意味ある体験」に注目し、その「メディア(中間にあって作用するもの)」を検討した。本研究は理論的な検討とフィールドワークで構成される。理論的検討では、身体教育の「メディア」としての「スポーツ(競技)」「運動」「遊び」「体験」を論じた。フィールドワークでは、意味ある体験のための「空間」の条件を検討した。主な結果は以下の通りである。 (1)「スポーツ(競技)」の体験はいわば「諸刃の剣」であり、意味ある体験のためには「スポーツ」と呼ばれ得なかった「身体活動」に注目する必要がある。 (2)日常の「運動」は競争一志向社会の中で制度化されておらず、それ故にその運動の結果に左右されず多様性を有する。結論として、身体教育における「メディア」としての日常の「運動」は、この運動の結果からの超越と運動の多様性によって基礎づけられるといえる。 (3)「遊び」は活動でもなく、目的のための手段でもないのであるから、身体教育のメディアとして位置づけることはできない。遊びは存在様態であるから、結論として、その存在様態への、すなわち「遊びへのメディア」が検討されなければならないといえる。 (3)「遊び」は活動でもなく、目的のための手段でもないのであるから、身体教育のメディアとして位置づけることはできない。遊びは存在様態であるから、結論として、その存在様態への、すなわち「遊びへのメディア」が検討されなければならないといえる。 (3)「遊び」は活動でもなく、目的のための手段でもないのであるから、身体教育のメディアとして位置づけることはできない。遊びは存在様態であるから、結論として、その存在様態への、すなわち「遊びへのメディア」が検討されなければならないといえる。 (4)身体運動の「体験」は単なる身体の移動ではなく、自己一身体とその空間に存在する事物や他者との関係の認識である。そこに「意味ある体験」がある。 (5)「意味ある体験」のための「空間」は、その「空間の履歴」を重要視する必要がある。また、その「空間」に対する新たな人為的なコンセプトは制限されなければならない。
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