イスラーム社会に本来宗族は存在しなかった。本研究は泉州丁氏などに対する研究を通じて、なぜ一部の回族が宗族の意識を受け入れたのか、そして宗族意識の受け入れと宗族化によって回族がいかに変容したのかを分析し、以下のことを明らかにした。明代に中華文化が強調され、一部の回族は周囲と平和的に共存するため、自らの異色を薄めて「地元化」の道を選んだ。「地元化」の重要な手段は現地漢人に学び「宗族化」することであった。「宗族化」の動機は、周囲の宗族による抑圧に対抗するためでもあった。しかし、「宗族化」のプロセスを通じて、周囲の宗族に対抗して自宗族の権益を守るもっとも有効な手段は宗族から科挙試験を通じて官僚になる子弟を育成することと知り、宗族一族が全力で科挙試験の受験を支えた。ところが、科挙試験を受けることによって、回族の「宗族化」は事実上「中国化」と「漢化」となった。 族譜は「宗族化」の重要なシンボルであったが、回族の族譜編纂は長い時期を要した。その理由は二つあった。 1、一方では地元にその「中国化」と「漢化」をアピールしたいが、他方では伝統文化と出自をならんかの形で後世に伝えたかった。その思惑によって、回族の族譜の内容はほかの族譜よりはるかに複雑で、それに時間が費やされた。2、族譜の編纂は宗族一族を代表する発言権を独占することであり、「編纂権」をめぐって各分枝の間に闘争が起こり、権威があり才能のあるものが現れるまで時間がかかった。第2点は漢族の宗族においても同じだが、族譜の編纂が同族者の間にあった尊卑、親疎、貧富、強弱関係を晒しだしたため、分枝もついに自らの族譜の編纂をはじめ、さらに弱い分枝はほかの地域、海外へ移動した。宗族は求心力だけではなく、排斥の力をもつメカニズムでもあった。分化と移動にともない、移動先の分枝が宗族の主体と一定の距離を意識的に保つことにした。
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