後期ハイデガーにおいて人間は、「死すべきもの」として「大地」、「天空」、「神的なものども」という他の三者と連関しつつ「一なる四者」をなし、「四方界」という単一態のうちに帰属するものと位置づけられている。そして、死すべきものとしての人間の死は、「無の聖櫃」と規定され、無としての存在を自らのうちに蔵していることとして、「存在の山並み」とも呼ばれることとなる。こうした死の理解の背景には、ハイデガーが露現と覆蔵の同時生起(としての存在)における覆蔵の側面に死の意味を見て取っているという事情を指摘することができる。覆蔵は、露現とともに、存在することとしての「世界が世開すること」がそのことして生起するための不可欠な契機をなしている。「存在の山並みとしての死」、「無の聖櫃としての死」という表現は、この覆蔵としての死を言い表したものであり、そこでは何ものかが現出することを可能にすることとして死が語られているのである。こうしたハイデガーの思索においては、死ということが、何ものかが現出し存在することの、いわば可能性の条件として位置づけられている。 これに対して、人間存在の根本現象として死を考察するフィンクの思想には、死の別な側面を見て取ることができる。彼の思想は、現出することに占める人間の役割を再考させるものとなっている。「空間を与え、時間を放つ」という「世界が世開する」働きを受け止め、その働きに与る者として人間存在を理解するならば、そしてそのようなものとしての人間の死を考察するならば、人間の死は「空間を与え、時間を放つ」世界の動性に与りえなくなることであり、そのことによって現出することの不可能性をもたらすこととして理解されることとなる。フィンクの思想のうちには、現出することと人間存在との関係を、現出することの不可能性という観点から問う思索の萌芽を見出すことができるのである。
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