本研究の目的は、現象学的死生観と既成の死生観とを総合的に理解することによって、現代人にとっても受容可能な死生観を明らかにすることにある。 この研究において明らかになったのは、以下の二種の死についての見方を現象学的死生観として指摘できるということであり、現代のわれわれにとって受容可能な死生観に関しても、それぞれの現象学的死生観に対応する二つのタイプの死生観を見出すことができるということである。 1.ハイデガーによる存在の思索のうちに、われわれは以下のような死生観を見出すことができる。自己を死すべき者と自覚することによって、かえって、いまここに生きてあることが神秘的なことであることが明らかになる。つまり、死の自覚が、自己の生を意味あるものとして際立たせるのである。これは、例えば、末期のガンの患者が現実に体験し、実感することができる死生観でもある。 2.死についてのフィンクの思想において、死は現出世界の崩壊と理解されている。現出世界の崩壊は、人間的自我に対して何ものも現出しなくなることを意味する。現出することという動性はとどまることなく動き続けるにもかかわらず、人間的自我が現出する働きを受け止めることができず、パースペクティブの原点として機能しなくなること。これが人間の死なのである。このような死生観は、死とは宇宙的生命への融合であると考える日本の伝統的な死生観と親近性を有している、ということができる。フィンクの現象学的思想のうちに見出された死の観念を、宇宙的生命への融合としての死として理解するとき、現象学的死生観における死は、諦めにおいてわれわれに受容される死を意味することになる。
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