今年度は認識論の観点からソクラテス以前とプラトンとの関係を考察した。プラトンの知識論で重要な役割を果たしているのが、知識と思わくの峻別だが、その端緒は、既にソクラテス以前哲学者たちにおいて見られる。 伝統的な神と人間との認識論的側面での峻別を背景に、クセノパネスにおいて、人間は慣習的で主観的な思わくと信念しか持ちえず、神のみが真理を認識するとされ、その対立はそのままパルメニデスに受け継がれる。ただし彼においては人間もまた神的な真理に与りうるとされ、そのとき、思わくと真理の二項対立は、一般の人間と「真理のこころ」を体得した一部の人間の対立に対応することになる。デモクリトスもまた、真の知識と思わくとを対置し、後者を慣習的で主観的な見解と解する。パルメニデスでは、未だ知性と感覚とが明確な対立関係を形成しておらず、そのため、思わくの拒絶も感覚の虚偽性だけにその根拠を求めてはいなかったが、デモクリトスでは、明らかに思わくは感覚に基づく判断として知性による知識と対立し、虚偽的なものとされている。プラトンにおけるイデア論内部での知識と思わく、知性と感覚の区別は、明らかに彼らのこうした到達点を踏まえ、その延長線上に成立している。 神と人間、神的知識と慣習的思わくという伝統的な区別が、すでに初期ギリシアにおいて認識の問題を考える上で大きな枠組みとして意識されており、実在との一致を真理の基準とするいわば古典的真理観の中で、ソクラテス以前哲学者たちは、万有把握が可能だと信じ、またそのための能力を人間に認め、かつて無造作におかれていたその能力の限界を拡張していった。それがプラトンにおける知識についての厳密な概念規定へと結実していくのである。ギリシア古来の神と人間の対立措定をいかに克服していくかという彼らの問題意識が、そのままその認識論を特徴づけていたとも言える。
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