本年度は、昨年度、原子論における認識論・自然学に関する内実理解に際して考察を保留していたデモクリトスの倫理学における快楽主義を考察した。幸福を何よりも精神の平静(「明朗闊達さ」)のうちに求めたデモクリトスは、しかし、その闊達さを快楽と単純に同一視してはいない。むしろわれわれの理性による快楽の判別、適度の認識がその闊達さをもたらすと見る(それは、自然本性的で幸福のために必要な快楽を判別する思慮を要請する原子論者エピクロスにおいても同様である)。この点で、快楽と善を同一視すると同時に、真に善であるような快楽を選び取るために計量の技術としての知識が必要だとする『プロタゴラス』のソクラテスの快楽主義は、軌を一にする。ただし、デモクリトスとソクラテス(プラトン)とで決定的に異なるのは、前者が(エピクロスほどに徳についての十分な議論を展開してはいないものの)節制や節度という徳の役割を重要なものと見なしておらず、また、それを人間において内在化し、あえて言うなら功利主義的観点から、明朗闊達さという幸福なあり方のための手段としていると思われるのに対して、プラトンでは徳は幸福の本質的な構成要素として支配的な役割を与えられている点である。他方、デモクリトスが、「魂はダイモーンの住まうところ」と語ってヘラクレイトスの道徳的洞察を魂の善による幸福の理論へと初めて展開し、幸福が外的な要因によって決定されるものではなく、あくまでも個々の人間の善き知的魂のあり方に依存するものだとする主張は、ソクラテス(プラトン)も同意するところであろう。なお、デモクリトスの倫理学を考察するに当たり、当初予定していなかったエピクロスの倫理学も合わせて見ていく必要が出たため、今ひとつの考察対象のプロタゴラスとプラトンとの関係については十分に扱うことができなかった。これは次年度も引き続き考察していきたい。
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