本研究は、超越論から離反したアドルノとデリダの芸術論を手がかりに超越論と芸術との関係について研究したものである。本研究を導く三つの問いは、「超越論からの離反したデリダが晩年の芸術論において超越論の重要性を指摘したのはなぜか」、「超越論から離反し音楽論に向かったアドルノと、超越論から離反し絵画論に向かったデリダとの芸術論は超越論からの離反といかなる関係にあるか」、「芸術論によって超越論の限界を超えようとしたデリダが示した芸術論的超越論とでもいうべき準・超越論は芸術以外の諸事象に対していかなる新しい視点を与えるか」である。 これら三つの問いに基づき、本研究は以下の四つの局面をその研究対象とした。まず第一部は、ハイデガーを含めフッサールの超越論から離反した20世紀の哲学者の多くが芸術論に向かったことは偶然ではなく、超越論の限界を乗り越えるために芸術を重要な手がかりとしたことを論じた。特に、『イデーン』においてフッサールが触れているテニールスの絵画についてアドルノもデリダも批判していることは偶然ではない。 第二部はデリダの絵画論における超越について、美学・芸術学と具体的な作品論とを手がかりについて論じた。デリダにとって芸術的超越とは、知覚を傷っけ、場なき場としての深淵を切り開くという不可能性の経験にほかならない。 第三部にはアドルノの音楽論における超越について、ベートーヴェン以降におけるソナタ形式とその崩壊の分析として論じた。 第四部は芸術的超越を通して獲得された可能的条件のみならず不可能性の条件をも含む準・超越論という考えは、社会的諸問題や生をめぐる倫理に対して不可能性という新しい視点から考え直すことを迫るものであることを論じた。
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