研究概要 |
ミーマーンサー学派は成立当初から, ヴェーダは誰にも作りだされていない永遠のテキストであるとしたが, クマーリラは『原理評釈』の中で, ヴェーダの命令文から発話者の意図を読み取ることの可能性を, 3通りに論じている。まず「岸辺が崩れようとしている」というように, 精神をもたないものの変化を, 精神をもつ存在の活動として, 全く比喩的に表すことができる。また, 人間界では, 始まりのない過去世以来, どの世代でも, 前の世代の師匠からヴェーダを伝授されて次世代に伝えるのだから, 弟子は, ヴェーダ文の構造から読み取れる趣旨を, 発話者として代々の師匠が伝えようとした意図として了解することができる。さらに, 音声テキストであるヴェーダは虚空界において「最高我」が宿っている身体であり, ヴェーダから読み取れるのは, 文字通りの意味で, 最高我という発話者が発する意図と考えられる。クマーリラは, 人為の聖典(スムリティ)に含まれるヴェーダ補助文献を, 文典的要素のあるスートラと, それのないカルパとに分類する。いずれもタイトルに作者の名が冠されているが, ヴェーダにも『カータカ』など, タイトルに人名を含むのものがある。同じく祭式文献でも, カルパ・スートラは人為のテキストであり, ヴェーダはタイトルに人名を含んでいても, その人物が作ったのではない非人為のテキストであることの一応の理由として, クマーリラは, カルパ・スートラは「作者が誰であるかの確固とした記憶」と共に伝承されていることを挙げる。しかしクマーリラがヴェーダを非人為の聖典だとする本当の根拠は, いかなる理由付けでもなく, ヴェーダのマントラを読誦したときに覚える或る種の感動である。クマーリラは, リグ, ヤジュス, サーマンの三ヴェーダ冒頭のマントラを引用し, いずれも, 人間に思いつくことができない情景を儀礼化し, 世俗の言語には見られない荘重な表現で歌ったものであり, このような言明は人間のなせるものではなく, 自立的なヴェーダがみずから発しているとしか考えられないと言う。神とも呼べる精神的存在をヴェーダの背後に想定していると言うことが出来る。
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