本年の研究業績は以下の2本である。1つは、中世曹洞宗の北陸地方の展開に関してまとめたもので、本研究の前部分の集大生をならすものである。日本曹洞宗を開いた道元は晩年は越前国永平寺を中心に活動した。その道元は「只管打坐」を唱え、現世利益的要素には距離を置いた。道元没後、永平寺の運営は懐弉に任された。懐弉は基本的には道元を継承した。道元.懐弉の代に於いて、曹洞宗が積極的に寺を建てした事実は見あたらない。この永平寺に激動があったのは3代・義介においてである。義介は永平寺に土地神等新たな要素を導入しようとしたため、退任せざるをないこととなる。 曹洞宗が現世利益的要素を取り入れ、全国展開する端緒を作ったのは義介の弟子、瑩山である。義介没後、大乗寺から退かざるをえなくなった瑩山は加賀国永光寺・能登国総持寺を開く。瑩山は現世利益的要素を儀式に取り入れていく。この流れを推し進める基盤を作ったのは瑩山の弟子、峨山である。峨山は永光寺・総持寺で多くの弟子を育て、その過程で破竃堕説話」(竃神の調伏)を唱えていた。 峨山の弟子たちは全国各地に寺を開いている。無縁の地で檀那を獲得するために神人化度説話等奇瑞を活用したと考えられる。その過程に於いて、地蔵信仰を活用する場合もあった。即ち、中世曹洞宗は、峨山門下の全国展開に伴って、地蔵信仰を受容していったのである。(「中世曹洞宗の展開-「只管打坐」から「神人化度説話」へ」)なお、その際、地蔵がどういった役割を担っていたのか、という問題は次年度の課題としたい。 こうした曹洞宗の神人化度説話は、神が人の姿を取る点に於いて、生身の地蔵と共通している。中世日本に於いて地蔵は概して生身の姿=人間の姿を取っていた。この共通性に関しては前年度口頭発表をしたが、今年度改めて、活字化した。(「日本中世における地蔵信仰の受容」)
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