本年度は、サン・ルカ美術アカデミーにおける、コンクールについて検討を進めた。資料上、明確に裏付けられるのは1663年以降のコンクールである。当初は絵画だけに限られたとはいえ(素描による)、その後、建築や彫刻のコンクールも開始された。絵画の場合、17世紀後半から徐々に定式化していった方式では、コンクールは3クラスで行われ、前もって提示された主題作品を制作して、所定の期日に持参する。この際、第1級クラスのテーマは高度な歴史画主題を、第2級のそれは概して制作に容易な歴史画主題を、第3級は名高い絵画作品や古代彫刻の模写を行った。またその真筆性を確かめるために導入されたのは、参加者にその場でテーマを与えて即興の素描を制作させるという方法であった。 コンクールの受賞者一覧を作成し分析した結果、明らかとなったのは、一度高い賞を得ると、再度コンクールに参加することはまれなこと、また逆に、同一参加者にあっても、回数の進むにつれて、概してよい賞を与えられていたという事実である。ここで機能しているのは、彼らを激励しようとする教育上の配慮のみならず、アカデミーの内部に彼らを取り込んでおこうとする、制度の秩序の論理そのものとも見なしうるだろう。さらにまた、特定の時期のコンクールの場合、受賞者はフランス人に有利なように作用している。1660年代の4回のコンクールで、フランス人はのべ3人(重複を除くと2人)受賞するに過ぎないのに対し、1670年から80年に至る5回のコンクールでは、実にのべ17人(16人)を数え、この傾向は1680年代以降になると激減する。こうした現象の一因は、ローマに対する、フランス王立絵画彫刻アカデミーの政治力学の強弱と照応すると見なさざるを得ない。コンクールについて、社会的・政治的規範というフィルターを完全に無視して見ることは不可能であり、サン・ルカ・アカデミーの実態は絶対主義システムとしての臨界点を露呈してしまっているのである。
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