研究概要 |
サン・ルカ美術アカデミーの特質を浮き立たせるべく、当該アカデミーの規約に分析を加えた。検討の結果、もっとも重要と判断されたのは、1607年に纏められ、1609年に出版されたもので(Ordini dell' Academia de Pittoriet Scultori di Roma,Roma,1609.)、1613年にミラノに美術アカデミーを創設しようと腐心していたフェデリコ・ボッロメーオの問い合わせたのは、おそらくこの規定集のことだと考えられる。 ここではアカデミー会員として受理される美術家たちに「入会記念」として歴史主題に基づく作品の提出を要請するという、従来のギルド・システムと、後にフランスで確立する提出画の中間に位置する発想を打ち出し、またアカデミーにある研究資料の持ち出しを禁じている。聖ルカの祝祭日におけるアカデミーの活動を規定する発想もまた、美術アカデミー発展史における、17世紀前半の当該アカデミーの中間性を伺わせるといえよう。興味深いのは、アカデミーの名誉のために「いかなるアカデミー会員も、公の店で働くことはできないし、退会員や非アカデミー会員も、絵画商いをおこなうなどの……店で働くことはできない」、「いかなるローマの画家も、自作でなければ……絵画を引き写すことは禁じられる」といった画家たちの利害に関わる規定をしていることである。またアカデミー会員たちに、宗教美術を制作に留意するよう求め、「総裁は、それらをアカデミーに掛けさせる、設置させることに意を払うもの」とする、女性の場合は作品を提出すれば会員になれるものの、アカデミーには出席できない、「これはただ彼女らに名誉を付与するためであって、その作品は、上に名前を書いて、永久に保持される」といった、前近代でやがて一般化する制度システムを規定する一方、若い学習者に対し、総裁の許可なくして、「私宅ないしローマの他の隠れた場所で、素描をおこなうべく集まることは禁じられる」という独占主義の理念を打ち出している。これらを文字通り実行したとは考えられない。しかしこうして、17世紀中葉にパリに生まれた、絶対主義の美術アカデミーの原型は、これをローマに震源すると考えられてよい、と結論される。
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