1.本研究は、ヴィクトリア朝の文学テクスト(主としてディケンズ、ギャスケル、ギッシングの小説)において克明に描写されたイギリスの都市生活者に観察できる狂気の諸相に焦点を定め、人間が一定の社会的状況のもとで示す行動の法則性を突き止め、様々な社会的要因と個人の心理状態との相関関係を明らかにするものである。このことは、テクストの主観的・直感的な読みだけでは実証できないので、他のヴィクトリア朝作家たちの狂気に関する言説と比較する必要がある。従って、平成17年度はデータと統計によって傍証を固めるために、ウェブ上に設置したハイパー・コンコーダンス<http://victorian.lang.nagoya-u.ac.jp/concordance/>を充実させた。その結果、100名のヴィクトリア朝作家の作品における狂気の言説が検索可能となった。 2.本年度はディケンズにおける狂気の問題を中心に分析した。彼が描く狂気については、真実と虚偽が区別をなくしている状況、つまり社会の矛盾と欠陥に起因するという環境決定論に偏っている批評が多いが、特定の個人には狂気の遺伝子があって、そのスイッチがオンになるかオフになるかは環境が左右するというのがディケンズの見解であることが判明した。 3.今後の研究は、ディケンズの影響を受けたギッシングの作品において、社会問題に対する激しい葛藤に絶えず苦悩する都市生活者と、イギリス近代の文明社会が彼らに強いた疎外感の分析に展開するはずである。2007年のギッシング生誕150年記念に向けて研究代表者が編集している『ギッシングを通して見る後期ヴィクトリア朝の社会と文化』(英宝社)の第5章では「ギッシングと都市」を論じる予定だが、ギッシングの都市生活者の狂気を考察することで、様々なものから疎外されて自己が分裂し、全体性を見失ってしまってことが明かになるであろう。
|