研究課題
基盤研究(C)
本研究の目的は、フンボルトの教養理念がその後約200年の中欧精神史の中でいかに受容され、また変容したかを追跡することによって、この理念の受容ないし変容の過程で生じた問題点を明らかにし、現在崩壊の危機に瀕している教養の再生可能性を模索することであった。その結果得られた主な知見は、以下のとおりである。フンボルトの教養理念は19世紀半ばにシュティフターの『晩夏』において清澄な文学的形象を得るが、その『晩夏』を高く評価したのは反教養主義者ニーチェであった。19世紀末期ドイツ教養市民層の安楽な教養趣味にフンボルトの理念の形骸化を見たニーチェは、『晩夏』に描かれた教養ユートピアの探求に、有用性の論理に抗して高貴な精神の自己形成に向かう教養の本質的契機を見出し、みずからもフンボルトの理念への回帰を訴えたのである。だがニーチェには、教養理念の敵対者となる「大衆」へのあからさまな蔑視があり、そこに万人に開かれた普遍的教養を信じていたフンボルトとの相違がある。フンボルトとは異なり大衆社会の幕開けの時代に生きたニーチェは、「教養俗物」としての大衆とユートピア的教養理念に生きる少数者を峻別し、後者を「探求者」と呼んだ。このニーチェの命名に、20世紀になってホーフマンスタールが応答する。ヴァイマル期におこなわれた講演『国民の精神空間としての文書』で、ホーフマンスタールはニーチェの「探求者」概念を呼び出し、この「探求者」を核とした「真の国民の形成」を訴えるのであるが、そこで自由に代わって拘束を求める精神を称揚したホーフマンスタールは、「保守革命」という言葉を発して新たなナショナリズムの運動に棹さすのである。この新たなナショナリズムの延長線上に成立したナチズムの時代に、凝固した反ユートピアを打破する精神として「可能性感覚」を提示したのがムージルであった。
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