ロシアを除くヨーロッパで、ドイツほど自然科学と精神科学の境界が曖昧な国はない。ドイツ人が合理と非合理、啓蒙と蒙昧、光と闇の識閾を容易に越境してしまうのはなぜか。本研究はこの問題に「一元論」という補助線を引き、このような現象に一つの解答を与えようとした。本研究では具体的には、生物学者で、ドイツにおけるダーウィン進化論の熱烈な支持者であったエルンスト・ヘッケルの自然哲学、「一元論」が吟味され、その影響を受けた文学運動ならびにその他の諸運動の思想と行動を分析された。二元論を否定してそれを一つの原理に統一する場合、そこには二つの可能性がある。つまり、二元論的対立の一方の側にのみ立つ立場と、両対立を止揚した立場に立つ場合である。前者の場合は唯物論(物質を唯一の実体とした場合)ないし唯心論(精神を唯一の実体とした場合)へ収斂し、後者の場合は例えばエルンスト・マッハにおけるように、実体を形而上学であるとして退け、存在論的固定を拒否して認識論のみに限定するような一元論を考えることができる。しかし一元論の究極的な特徴は、その形而上学への反転にある点を指摘したことが、本研究で最も重要な成果といえる。「精神と物質」が一元論的にとらえられるならば、精神が物質化されるという実証的自然科学の裏面には、必ず物質が精神化される、あるいは物質に霊魂が吹き込まれるという賦霊論が存在し、また「心と身体」が一元論的にとらえられるならば、そこには心身合一論が、つまり精神は肉体であるという実証的自然科学の裏面に、肉体は精神であるという、一種の身体文化(Korperkultur)への、肉体の魂化への、SeeleとKorperの未分という領域への扉が開かれているのである。一元論はすなわち、特に自然救済論を機軸とするネオ・ロマン主義的な神秘主義と親和性があると言わなくてはならないのである。
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