平成20年度に実施した研究の成果は下記の通り。 本研究のテーマ「南チロルの現代ドイツ語文学に描かれた多文化社会に生きる青年」について、論文『「私」 を巡る問いの発見-ヨーゼフ・ツォーデラーの小説『手を洗うときの幸福』-』を執筆、発表した。さらに、論文『「私」と「私たち」の葛藤-ヨーゼフ・ツォーデラーの『イタリア女』とザビーネ・グルーバーの『帰らぬ子ら』-』を執筆した。 前者においては次のことを明らかにした。小説『手を洗うときの幸福』は、青年期を迎えた主人公が、厳格な規則の支配する寄宿学校の中で「私」を巡る問いに目覚めていく過程を描いたものである。主人公は、南チロルの歴史や自家の漂流について知り、言語、故郷、歴史といった枠組みの中に幼少期の断片的記憶を統合させようと試みることによって、社会的・心理的「私」を構築しようとしている。そうした青年期の心理的作業を主人公自らが語り手として後の視点から「書く」ことは、「私」の社会的承認としての機能を持っている。 後者においては、「私たち」という語に表れた集合的アイデンティティの意識と、ステレオタイプな見方では捉えきることのできない唯一無二の存在としての「私」を求める意識との、内なる葛藤を描いた作品として、上記二つの小説を論じた。そこに描かれているのは、「同質性」に基づく既成グループへの迎合ではなく、雑種的・あいの子的存在としての「私」の新しいあり方を模索する若者たちの姿である。 平成20年度も、南チロルとオーストリアに赴いて、作家ヨーゼフ・ツォーデラーとザビーネ・グルーバーにインタヴューした。その成果は上記論文に反映させた。 さらに、19年度より進めてきた小説『手を洗うときの幸福』(全170頁)の翻訳作業すべてを完了した。その一部は著者の了解を得て雑誌『かいろす』に発表した。翻訳のすべては近いうちに出版したいと考えている。
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