研究概要 |
1.ゲーテの作品においては、その展開に従って、諸儀式の場面と同時に「犠牲」の観念が生じるが、その根底に、理性や文明は必然的に犠牲を伴うという、批判理論と共通する認識がある。「神話に対する抵抗」とは、この「犠牲」に対するゲーテの認識と批判精神を指す。これまで『親和力』や『ファウスト』の読解を通じて、両作品の諸場面においてこの主張を論証できる見運しを得た。しかしは中川は、『タウリス島のイフィゲーニエ』を読み返すうちに、この作品においてこそ、他作品においては通奏低音として響いている当テーマが、主題として展開していることに思い至った。それを論証しようとしたのが、昨年11月19日に独文学会北陸支部で口頭発表した「ゲーテ『イフィゲーニエ』と犠牲」である。この発表では、ゲーテの当作品が、人身御供という、文字通りの「犠牲」の廃止を中心に展開されること、と同時に、この阻止がトアス王の恋愛感情の断念を伴うことに着目し、前者の行為を野蛮の文明化とすれば、後者の行為は、文明化が要求する新たな種類の犠牲=(内面の犠牲)であることを指摘した。ところでこの口頭発表は、その後中川が長期入院と療養(解離性大動脈瘤)を余儀なくされたため、予定していた論文化をこの研究実績報告までに果たせなかった。 2.本来、当課題が科研費の追加指定を受けることを予想していなかったこともあり、中川は「犠牲」の観念を、しばらくR.M.リルケの創作態度に即して考察していた。犠牲の儀式が成り立つためには、ある程度堅固な共同体意識が必要である。近代化と都市化の進展は、この共同体意識の崩壊を招くが、リルケの場合、「犠牲」観念は、抽象的な絶対者(=芸術神)に対して支払う(詩業の成就を目指しての)孤独という形で存続している。それを指摘したのが"Das Sehen in der Einsamkeit in Rilkes "Aufzeichnungen des Malte Laurids Brigge, Erstes Kapitel : Die Einsamkeit"(富山県立大学紀要、2006年5月刊行予定)である。
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