米国ロマン主義文学の超越性研究に関しては、昨年度、作家ハーマン・メルヴィルの足跡を追って、昨年度の科研費補助金のうち旅費を用いて、米国ニューヨーク州を訪れ、多くの資料を収集したが、とりわけ、かれにちなむ土地、建物の写真を撮影できたこと、またピッツフィールド市のメルヴィル記念館にて、写真アーカイヴを閲覧できとことは、収穫であった。本年度は、科研費のうち旅費を用いてフランス領ポリネシアを訪問し、そこにメルヴィルの足跡を追った。また、私費にて再びニューヨーク市ほかを訪れ、古地図、古写真を収録する書物を入手した。これらは、現在、出版計画進行中の「もっと知りたい名作の世界『白鯨』」編の、図版として使用する。 近代日本文学の宗教性研究に関しては、昨年度「漱石か秋声か、小島信夫と文学の未来」なる論文を、「解釈と鑑賞」誌に発表し、死と老いと文学創作の問題を考え、近代日本文学の2大潮流として、漱石的なるものと秋声的なるものを抽出し、前者にキリスト教的超越を、後者に仏教的超越をみる構図を仮説的に考察したのだったが、仏教的超越に小説の構築は可能か、秋声の問題はそこにある、と仮説するにいたった。本年度は、この仮説を検証すべく、先行秋聲論を調査した。なかに河上徹太郎の秋聲批判があり、これは、河上のキリスト教の立場、西洋音楽の立場から秋聲批判であるとの結論を得た。河上は、森有正の「ドストエフスキー論」を高く評価するのだが、その森有正は、西洋音楽バッハのオルガン演奏者でもあった。河上もまたピアノ演奏者であり、ショパンへの造詣が深い。そのような教養からみて、秋聲は、批判の対象にならないわけにはいかないとの結論を得た。しかし、本当にそうか、文学は、そんな簡単な芸術ではないのではないかとの疑問が残された。
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