本研究では、1960年以降の翻訳論の展開を、ナイダを中心とする意味の等価に依拠する翻訳論、翻訳における文化の役割を強調したトランスレーション・スタディーズ、オリジナルがすでに解体されていることを暴露しようとしたポスト構造主義の翻訳論、翻訳の神学的な意味を問いかけようとしたユダヤ教解釈学的な翻訳論という4つの局面に分けて、翻訳論の投げかける問題を検証した。意味の等価に依拠する翻訳論においては、翻訳には不可能性と可能性の両面があり、翻訳はつねに可能であるというわけではなく、ある限度内においてのみ可能であるという見解について考察した。翻訳における文化の役割を強調したトランスレーション・スタディーズにおいては、目標言語における「意味されるもの」は起点言語とその意味内容から構成されており、その意味において翻訳のメタ言語性を考慮しなければならないこと、また、意味の等価を前提とする従来の翻訳研究から離れて目標言語のテクストの文化的機能の分析に焦点を移すポリシステム論、さらに、翻訳は中立的で透明な作業過程ではなく媒介者のイデオロギーと政治的な姿勢が反映するという翻訳の権力作用などの側面について検証した。オリジナルがすでに解体されていることを暴露しようとしたポスト構造主義の翻訳論においては、目標言語は起点言語の解釈の一形態にとどまり、起点言語を表象としての言語ではなく言語それ自体として捉える戦略について触れた。翻訳の神学的な意味を問いかけようとしたユダヤ教解釈学的な翻訳論では、翻訳論の背景にユダヤ教解釈学の系譜が存在しており、翻訳における理性的な知とグノーシス的な知の対立は、結局ギリシア=キリスト教の受肉する言語を認めるロゴス中心主義と、原初的な意味は解釈を通して露わになると考えるユダヤ教解釈学との対立へと収敏することを確認した。
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