聖諭宣講は清朝政府が地方の「郷約」という自治制度の中でおこなっていたが、文字を識らない民衆のために方言の使用も行われた。清代末期に至って民間の善堂が刊行したテキスト集も出現した。その代表が『宣講集要』十五巻である。その言語は「西南官話」という四川・湖北で使用される方言であり、「案証」と称する因果応報説話も四川・湖北の出来事が多数を占める。『宣講集要』は民国時代に上海から石印本が出て全国に普及したが、実はこうした説唱形式の宣講は四川・湖北に流行しており、それが読まれるテキストとして全国に知られることになったのであった。それが証拠に広東で発行された『宣講博聞録』は文言で記された宣講テキストであり、宣講を担当する者が口語で講説したものと思われる。説唱形式の宣講は清代に四川の中江で刊行された『躋春台』四巻があったが、現代ではすでに四川では滅亡しており、ただ湖北の漢川市一帯にだけ今なお伝承されている。その上演の形態を分析してみると、清代の「案証」は物語性を形成しておらず、宣講を担当する者も1人或いは2人であったと思われるが、現代の漢川市の上演では宣講を担当する者は5名にのぼり、1人がストーリーを講説し、後の4人は登場人物の台詞を詩歌で朗誦する。その詩歌は口語体で多くは十言句である。十言句の源流をたどれば元代の雑劇までさかのぼる。現代の宣講はまた小説・戯曲から題材を借りて、娯楽性を増幅させている。漢川市に現代もなお宣講が伝承されるのは、こうした生存ための工夫がなされてきたからにほかならない。
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