今年度は、引き続き北海道大学付属図書館のアイヌ語古文献の調査を行い、関連する文献の調査、収集を行った。これと並んで、これまで収集、分析して来た18世紀前半以前の、アイヌ語文献資料が少ない時代の資料についてのさらなる調査、研究に力を入れた。その結果、アイヌ語最古の文献に属する「松前ノ言」、イエズス会イタリア人宣教師ジロラモ・デ・アンジェリスの残したいわゆる「蝦夷国報告書」(Relatione del regno di Iezo)に関連して、これまで指摘されたことのない、各々の文献についての非常に興味深い事実を明らかにした。まず、「松前ノ言」は、奥書その他がないために、成立年代については書体や料紙などの外面的特徴からその年代を推定するしかなかったが、今回、文書の中で用いられているアイヌ語表記の奇妙な特徴(「ん」を促音表記として用いる)が、室町末期の日本語表記の特徴と一致することを指摘し、この文献の成立年代についての言語学的な根拠を示した。また、「蝦夷国報告書」については、従来、直接の聞き取りに基づく資料と暗黙に理解されていたが、語頭に不可解なyを用いた表記が現れる点に着目し、この表記が室町末期から江戸初期にかけての日本語の特色(eという音節がなく、すべてyeであったこと)と一致することから、アンジェリスは仮名で書かれた日本人によるアイヌ語資料をローマ字に転写したのではないか、という推定を行った。なお、アイヌ語の古文献資料研究の基礎となるものとしてアイヌ語の文法研究、方言研究が欠かせないが、アイヌ語で一般的に許される合成名詞の構造について、従来の定説とは逆に疑似修飾構造こそが合成名詞の主要な形成法であることを示した。また、研究の少ない伊達方言について50年前の録音資料を分析し、江戸時代の有珠山噴火、英国船来航を伝えるアイヌ語伝承テキストを解読し、文法的な特徴(特殊なわたり音挿入規則、特殊なアスペクト形式)を明らかにした。
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