(1)大内氏の妙見信仰について考察を深めた 二階堂善弘著書によれば、玄武(北極星の使い)が地位を向上させ、北宋以降、真武神になるという。また、千葉市立郷土博物館の展示及び研究紀要によれば、関東の千葉氏も大内氏同様、妙見信仰を一族団結の中心とし、千葉県内に伝存する尊像の分析から、道教系の武神型妙見が、鎌倉後期に日本へ入って来たものであるという。これらのことから、北極星の神がすでに中国で性格を変え、これが日本に伝わって、妙見が武神として読みかえられたと考えられる。あわせて千葉氏の九州での拠点である肥前国小城(おぎ)(佐賀県小城市)の調査をした。これにより、千葉氏は、南北朝期以降においても、城館・都市・妙見信仰により領域支配を維持し、関東・九州両方で守護大名級の勢力を持ち、大内氏と比較するのに好適なケースであると判断された。大内氏も政弘の代までに道教的妙見信仰を持つに至るが、それがいつまで遡るかは千葉氏のように明らかではない。その手がかりのひとつとして、東京大学史料編纂所で妙見と大内氏の祖先伝承(琳聖太子)の関係を記す『鹿苑院西国下向記』を調査したが、この記録の成立年代については、先行研究はあるものの、いまだ検討を要する。 (2)大内氏と禅宗との関係について多様な視点から考察した 史料編纂所で『雲門一曲(うんもんいっきょく)』を調査することによって、南北朝段階の大内氏は、山口ではなく、大内村を本拠として明使(みんし)趙秩を歓待していたことがわかり、この地にあった禅寺乗福寺が外交機能を持っていたことが推測できる。また、山口県立美術館の展覧会図録『雪舟への旅』によって、最新の雪舟研究に触れ、雪舟の活動が、大内政弘の意向を強く受けたものであることがわかった。
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