従来大内氏領国内でほとんど一向一揆が起こっていないことが注目されていなかったので存い大内氏領国の状況から一向一揆を新たにとらえ直すことを目指した。まず一向宗の前提となる北陸地域の鎌倉旧仏教の機能について考察することとし、平安末期に加賀国で起こった「安元事件」の性格の再検討を行い、北陸宗教文化学会において研究発表を行い、『北陸宗教文化』20号に掲載された。第一に、これを国司の非法と決め付けるのではなく、「保元新制」に従って寺社領を停廃する政策のもとに起った考えることが可能である。第二に、白山寺社は、在庁官人層によって免田の寄進を得、かつ国衙に保護されて来た経緯が見受けられ、必ずしも国衙との対立構造は窺えない。第三に、大津神人の活動が妨げられたり、加賀国にある天台座主の私領が国司によって停廃されたというような国外勢力とあ摩擦も事件の背景にあることが窺われる。次に、一連の一向宗の拠点となった地域の調査を行い、(1)越中国一向宗拠点、(2)飛騨国一向宗建築、(3)加賀一向宗拠点及び一向宗に滅ぼされた旧仏教寺院、(4)越前一向宗の拠点となり織田方に焼き討ちされた山岳寺院及び蓮如の拠点となった海辺の寺内町、(5)三河一向一揆の拠点、(6)蓮如が建てた山科本願寺跡、というように訪問した。山間部、平野部、海辺部、それぞれに一向宗の拠点が分布し、一向宗と反一向宗のそれぞれが豊原寺及び平泉寺のように山間に巨大な都市的な空間を作っており、大内氏領国と異なり、守護大名家臣の統制とは別系統の地域的宗教勢力が分布していることを窺うことができた。あわせて大内氏領国支配に果たす寺社の機能について考察し、長門国における神社祭礼、都市(長府・赤間関)の住人と寺社の関係から、地元民は都市に所在する寺社に奉仕することを名目として結集し、大内氏はそのような共同体の自治に依拠していることが明らかになった。
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