研究概要 |
アメリカ・ワシントンの国立公文書館から関係するThe Records of the Department of State Relating to World War I and Its Temination, 1914-1929の一部マイクロフィルム、東京の防衛庁防衛研究所図書館から『大正三年乃至九年戦役俘虜ニ関スル書類(俘虜取扱顛末)』の全文マイクロフィルム、ドイツ・フライブルクの連邦軍事公文書館からJohann Kreuzer : Einiges uber meine Dienstzeit als Seesoldat beim III. Seebtl., 2. Komp. in Tsingtau und meine Kriegsgefan-genschaft in Japanの全文複写を入手して、その内容を解読・分析した結果を裏面記載の論文3編として公表し、さらに2005年11月5日に愛媛大学法文学部で開催された第54回日本独文学会中国四国支部研究発表会の公開シンポジウム「第一次大戦時の中四国におけるドイツ兵俘虜収容所」においてパネリストの一人として「丸亀俘虜収容所について」発表した。その際の発表要旨は次の通りである: 丸亀俘虜収容所は1914年(大正3年)11月14日に開設され、11月16日に324名のドイツ兵俘虜を収容した。この収容所は2か所に分かれていて、下士官70名と兵卒243名は、丸亀に隣接していた当時の六郷村内の西本願寺・塩屋別院に収容され、将校7名は従卒4名と共に丸亀市内の赤十字看護婦養成所跡の施設に収容された。1917年4月に333名の俘虜が新設された板東俘虜収容所に移送された後に、丸亀俘虜収容所は閉鎖された。 初代収容所長の石井弥四郎中佐は俘虜に理解のある人物だったらしく、俘虜との関係も友好的で、病気による退任の際には俘虜の将校や下士官達と一緒に撮った記念写真が残されている。収容所の管理部のみならず、周辺の住民も俘虜に対して非常に好意的・同情的であった。俘虜が到着した当日は収容所に通じる道路のあちこちに「心より大いに同情して歓迎します」とドイツ語で書かれた標識が掲げられていたと言う。 しかしそれでも全く問題がなかった訳ではない。1915年には点呼を強制されることになった俘虜将校達が強く反発して、最古参将校が東京のアメリカ大使に陳情書を出そうとした「ランツェレ大尉事件」が起きている。
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