鎖国から2年後の1641年。オランダ人は狭い出島に移された。1867年の大政奉還、1868年の明治政府誕生までの約200年問。出島では、どのような生活がなされていたのであろうか。とくに、1549年のキリスト教伝来からキリスト教禁止令が出される1614年までには、日本にある程度の西洋音楽が根付いた経緯があるが、キリスト教と深い関係のあった音楽はその後どのように変化したのか、興味深いところである。この研究は、明治になって、新たに始まる西洋音楽教育の前に、徳川政権下で唯一の西洋への窓として機能した出島において、果たして西洋音楽は鳴り響いていなかったかを検証するものである。 『オランダ商館日記』には、1820年、オランダ商館長ブロムホフは、日本人の長崎奉行の交代に際して、新旧の奉行2人とそのお伴を招待し、演劇とオペレッタを演じたという記述が残されている。1つは、「短気な男」、もう1つが「二人の猟師とミルク売り娘」である。「短気な男」は、金貸し親父の娘と短気な男が繰り広げる恋のてん末を描いたフランスの喜劇をオランダ語で演じたものである。「二人の猟師とミルク売り娘」は、貴族の娘が駆け落ちをするが、途中で男に捨てられ、ミルク売りになりさがってしまう。その娘と二人の熊狩りとの一獲千金を夢見たフランスのオペレッタのオランダ語版である。 どちらも、商館員と商船の乗り組み員が演じている。とくに、オペレッタの方は、出島の医者であったシーボルトのお抱え絵師であった川原慶賀が、その模様を7枚の絵に描き表しており、それは、今日、新潟県柏崎市にある黒船館に「阿蘭陀芝居図巻」として所蔵されている。また、それとまったく同じものが、オランダのアムステルダムに「出島俄(にわか)芝居図」として保存さて入るとされている。 今年度は、2000年に、日蘭交流400周年を記念して長崎市民によって上演されたオペレッタの録画を入手し、その分析を進めており、発表まで至っていない。
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