18年度は、シーボルトのピアノについて調査・研究した。 1823年に長崎出島のオランダ商館付き医官として来日したシーボルトは、翌年に萩藩の御用商人である熊谷五右衛門義比(よしかず)の診療をしたのを機に、その後何回か面会の機会を得ている。中でも、1826年、シーボルトが江戸に参府する道中、下関に逗留の折、熊谷が治療のお礼を言いに面会したことが、シーボルトの『江戸参府紀行』に記されているのは特記される。そして、1828年8月のいわゆるシーボルト事件(国外持ち出し禁止の日本地図を持ち出そうとしたことが発覚したもの)が起きる前の月に、日本を離れる準備をしていたシーボルトは、熊谷五衛門に、1台のピアノ(フォルテピアノ)を贈っている。 しかし、その存在は、それから約130年後の1955年に萩の医者で郷土史家の田中助一が発見するまで、熊谷家の倉に置かれたまま忘れられていた。その後、1958年から1959年にかけて広島の楽器店が修理し、さらに1965年に、財団法人熊谷美術館が発足するのを機に、重要な所蔵品の一つとして「シーボルトのピアノ」として展示されるようになり現在に至っている。 折しも、日蘭交流400周年にあたる2000年にあわせて、フルート奏者の國森由美子氏が中心になってそのピアノの調査・修復を進め、オランダ人ピアノ修復家のハセラール氏を招き、修復に着手したが、その途中にハセラール氏が亡くなり、日本調律師の会にゆだねられるところとなった。その間、とりあえず2000年には、熊谷美術館と長崎での当該記念会場で、一部お披露目も行われた。筆者は、その際の録音音源を入手することができた。 「我が友熊谷へ、別れのために ドクトル・フォン・シーボルト 1828」というサインが入ったピアノは、ロンドンのロルフ社のスクエアピアノ(箱形のピアノ)で5オークターブ半の鍵盤を有している。 また、シーボルトの死後、1874年にウイーンからシーボルト作曲のピアノ曲が「日本樂譜」として出版されており、その中にはピアノ曲だけでなく、歌曲も一つおさめられている。それは、「シーボルトのかっぽれ」と称されるもので、ローマ字つづりの日本語で「あのこ 見たさに やれこれ これわと(いの間違い?)さ…」といった歌詞がつけられている。ピアノ曲も、この歌曲も、おそらく記譜ミスだと思われる箇所がいくつか散見されるし、決して傑出した作品とは言いがたいが、このピアノ曲は、日本通だったシーボルトの"知られざる一面"を物語るものである。 18年度は、シーボルトのピアノについてとくに調査・研究し、あわせて平成17年度に収集した出島でのオペレッタの上演も含めて、幕末の出島での音楽状況を整理した。
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