今年度は、地域的入用の検討と瓦林組の地域構造の検討、天保6年国訴における瓦林組の対応の検討等を通じて、日常的な組行政における中心的担い手と国訴など非日常的な場面における惣代との関係について分析を行った。その結果、(1)日常的な組行政では、大庄屋と組内一部地域の庄屋が中心的に業務を担っていたこと、(2)その場合、尼崎城下に設置された町宿が重要な機能を果たしたこと、(3)天保6年国訴の際には、上記(1)のような組の執行部的存在-大庄屋と一部の庄屋-は、運動の前面には立たなかったこと、(4)大庄屋は藩に対して国訴へ合流する件について逐一報告を行っており、いわば藩ぐるみの対応を尼崎藩領村々では行ったこと、などが明らかになった。そして畿内の地域社会像については、幕藩権力・対・国訴結集村々のように、権力と村々を二項対立的にとらえるのではなく、藩と藩領民との関係にまずは重きをおいて畿内の地域社会を再検討すべきという見解が得られた。 一方、研究を進めるなか、大庄屋の身分的問題と家意識が改めて重要なものとして再認識された。そこで、当該問題について比較的史料の残されている松本藩の事例を検討した。 その結果、(1)苗字帯刀特権をはじめとする近世後期の大庄屋の身分待遇は、幕府と藩で異なった認識や取り扱われ方が同時に存在していたこと、(2)19世紀初頭の幕令以降、百姓身分の大庄屋には藩領外で苗字帯刀を行使することが原則許されなくなったこと、(3)弘化期の和歌山藩大庄屋への幕府からの特例許可が先例となり、以後一部の藩にも特例が認められるようになったこと、(4)幕府が諸藩に特例を許可するにあたっては、地士であるかどうかがカギとなったこと、(5)幕末期に特例を認められた藩では以後大庄屋の身分意識が士身分に準じるものとして大きく変容していったこと、などが明らかになった。
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