本研究は幕藩体制下で積み上げられてきている阿波の中世山村研究について、埋もれている業績の発掘をふくめた収集と分析をおこない、それら研究が中世山村をどのように把握していたのかをあきらかにすることを目的とする。本年度は主として四国山地の中心に位置する祖谷山について書かれている『祖谷山旧記』の分析に主力をそそいだ。 『祖谷山旧記』は18世紀中期に成立しているが、喜多源治が書いた『延享本祖谷山旧記』と祖谷山名主らが共同編集した『宝暦本祖谷山旧記』の2系統が存在し、同一書名ながら内容はおおきく異なる。本年度はまず、従来史料不足から分析が不十分であった両本の関係について新出の近藤家蔵『宝暦本』にもとづいた分析をおこなった上で、とくに1580年代における阿波への蜂須賀氏入部以降の動向を記述している『延享本』を分析対象とした。『延享本』は在村郷士であり祖谷山政所でもある喜多家当主により執筆された由緒書であるが、研究史の上でも信頼できる原史料が極度に少ない四国山地についての詳細な記述であったために、その記述が事実とみなされることが多かった。そこで、山城谷・一宇山・半平山・種野山・大粟山・仁宇谷・那賀山など祖谷山周辺山間部の郷士・庄屋クラスが近世中・後期に書いている由緒書類を収集し、それと『延享本』を対比させることで、16世紀末から17世紀にかけての祖谷山でどのような事態が事実として進行していたのかについての分析をおこなった。そのなかから、『延享本』の記述が歴史的事実と相当程度食い違っていること、その食い違いをただすなかから阿波と土佐との境界の地としての祖谷山を舞台にした複雑にして多面的な中世山村から近世山村への移行の歴史像が浮かび上がってくることがあきらかになった。
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