本研究は近代における中世四国山地研究の前提として、江戸時代の阿波国において在村研究者らがおこなっていた研究に光をあてることを目的とした。それはこの時期の研究者たちの優れた着眼点が必ずしもその後の研究に引き継がれないまま埋もれてしまっているものがあること、逆にこの時期の研究で提唱されたことが無批判的に引き継がれ今に至っているものもあることなど、この時期の研究を掘りおこすあるいは整理することが今後の研究の進展にとっても必要になっているからである。 近代になってからの、四国山地の中世像あるいは中世から近世への移行についての歴史像はその多くを一七四〇年代に喜多源治という在村知識人が書いた『延享本・祖谷山舊記』の記述に依拠している。本研究はとくにこの『舊記』の分析に重点をおき、そこにあらわれている中世山村の近世山村への移行の実態、さらには移行期のあり方から浮かびあがる中世山村像の特質について、分析をおこなうことに主力をおいた。『祖谷山舊記』といった場合、延享本以外に『宝暦本・祖谷山舊記』もあり、それぞれ別な政治的な意図のもとで作成されており、いずれも史実に忠実とは言い難い。しかし、延享本については、その骨太な構想力、大量の史料引用、さらには緊張に満ちた語り口などの面からいって、近世阿波の生みだしたもっとも優れた歴史の書の一つになっている。この延享本を素材にしながら、『川田邑名跡志』や『阿波志』など阿波国近世にかかわる記述との比較、国境をこえた土佐・讃岐の山間部との比較などをふまえて、一六世紀末の蜂須賀氏の阿波国入部から一七世紀中期にいたる約半世紀間の中世から近世への移行が現実にはどのようなものであったのか、を分析した。
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