平成18年度は博多の城郭構造を更に明らかにするために、(1)元冠防塁の後ろの第2防衛線として構築された大水道について、(2)博多の都市設計を行ったのは鎌倉幕府・鎮西探題であるために鎌倉と博多は都市の構造が共通していること、博多は鎌倉を理想化して構築された都市であり、鎌倉城に対し博多城とも呼ぶべき構造であったこと、(3)博多の都市の範囲と構造、について明らかにした。 (1)について、(ア)大水道は後ろに土居町という地名があり、土居町は土塁に由来している地名であることから、大水道は土塁を伴っていた構造であったことを明らかにした。(イ)大水道の構築やそれに伴う土塁構築の技術は、鎮西探題の初代北条実政は金沢氏流であり、金沢氏は日本最大の河川である古利根川流域にあった下川辺荘の治水、灌概の工事を通じて必要な土木技術の知識に習熟していたこと、また、当時の御家人達も河川の治水、灌概の工事を担当させられ、大水道や土塁を構築するような土木技術に習熟していたことを明らかにし、鎮西探題や御家人達が大水道やそれに伴う土塁を構築する土木技術の知識は十分に習熟していたことを明らかにした。(エ)大水道やそれに伴う土塁の構築は筑前国の御家人の負担として行われた工事であったことを明らかにした。 (2)について、鎌倉は若宮大路を防衛線とし、それより東側に重点を置いて防備体制を構築していたが、博多は、南側の防衛のために房州堀を構築し、西側は那珂川を背にして防備体制を構築していた。更に房州堀の南側には鉢の底川があり、那珂川の内側には人工の堀を掘り、南側、西側ともに堀や河川により二重の防備線を構築していた。そして、それらで囲まれた区域の南西部に鎮西探題、櫛田神社、大乗寺を集中的に配していたことを明らかにし、博多の防備体制は鎌倉城と呼ばれた鎌倉よりも更に理想化して構築し、博多城とも呼ぶべき構造であったことを明らかにした。 (3)について、博多は、従来、自然発生的に成立した都市であるとされていたが、聖福寺の伽藍の基軸線と聖福寺の総門を通り、伽藍の基軸線と直交する線を基準として東西七町、南北十一町半の範囲で半町を単位として正確に碁盤の目形に設計された都市であったこと等を明らかにした。
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