博多は蒙古襲来後、元に対する日本の最前線の都市となった。そのために鎌倉幕府は博多に鎮西探題を設置するとともに、鎌倉幕府・鎮西探題は博多を城郭都市として構築し、これらの構築は鎮西探題金沢実政によって行われたことを明らかにした。 1.鎮西探題は博多の中心部から西南部よりに設置され、奥堂屋敷と現在の地形から、櫛田神社、大乗寺、犬射馬場、奥堂屋敷に囲まれた二町半の正方形の敷地であることを明らかにした。 2.奥堂屋敷は従来、誰もその位置を明らかにできなかったが、奥堂屋敷は鎮西探題の正面、正門・北門の北側に配置され、巨大な防禦防御壁の役割として配置されていたことを明らかにした。 3.鎮西探題の館は北側の正門の西側に代官・執事の周防五郎政国、その並びに安富左近将監貞泰の居宅等を配置し、館の周囲を御内の居宅で囲み、その背後に御奉行所、侍所等を配置し、これらの外郭と鎮西探題の居住区域である内郭から構成された城郭構造であることを明らかにした。 4.鎮西探題の検断権については佐藤進一先生以来否定されていたが、鎮西探題には鎌倉幕府、六波羅探題と同様に侍所が設置され、博多市中の検断権を管掌していたことを明らかにした。 5.博多は自然発生的に形成された都市ではなく、東西7〜8町、南北11町半の長方形の範囲に、半町を単位として碁盤の目型に正確に区画し、きちんとした都市計画の下に構築された都市であることを明らかにした。 6.鎌倉幕府・鎮西探題は元寇防塁の後ろに、後世、大水道と呼ばれた土塁を伴った第二防衛線を構築し、南側に後世、房州堀と呼ばれた堀、東側にも堀を構築し、博多を城郭都市として構築していたことを明らかにした。
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