ユダヤ人難民組織が発行した『移住者住所録』(1939年11月)とユダヤ人ゲットー地区を管轄する提籃橋分局特高股が作成した『外人名簿』(1944年8月)を基に上海虹口地区で1週間にわたり現地調査を行った結果、1)4畳半〜6畳程度の広さの部屋に1世帯、1軒の家に10人以上が住む過密状態であり、ゲットー設置後(1943年5月)はそれが2倍程度悪化した、2)ゲットー地区の境界線は重要な通りに沿って数キロにわたっており、一部に論じられるように鉄条網やバリケードでユダヤ人難民の行動をゲットー内に物理的に制限するのは、境界線となる通りの交通輸送だけを考えても不可能である。またゲットー地区外にも難民キャンプが存在した、3)同じ里弄住宅と言ってもその建設時期は半世紀以上にわたり、その居住性には大きな差が存在した、4)里弄は本来、通りに面した家々の裏側に存在する巨大な住居群であるが、通りに面している家もその裏口で里弄につながっている。それゆえ通りに面した家に住む難民が皆店舗を構え経済的に安定していたわけではないこと、等が明らかになった。 現地住民からの聞き取り調査の結果、1)1945年7月17日の米軍による爆撃の目標は日本軍の無線局だったという主張があり、この無線局はこれまで提籃橋監獄内に設置されたと考えられていたが、実際には約600メートル西の澄衷中学校内にあった、2)ゲットーが黄浦江から一定距離離れていた理由として、川沿いに倉庫や荷揚げ場所があったことは以前から言われていたが、そこから上海北部の江湾飛行場への輸送ルートがユダヤ人難民の居住地区に重ならないようにゲットー地区が設定されたこと、が判明した。 上海図書館における調査の結果、ユダヤ人難民社会の公的機関紙的存在だったShanghai Jewish Chronicle紙は1943年7月〜1944年3月の9ヶ月間に発行されたものが保存されていることを確認した。
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