本研究は、19世紀のオスマン帝国における地方社会の変容を、アナトリアとバルカンにおける二地域の比較から明らかにすることを目的としている。二地域とは具体的には、トルコ共和国西北アナトリアのバルケスィル地方と、ブルガリア共和国ローヴェッチ県ビャーラ・チェルクヴァ町である。19世紀中葉バルケスィル郡における遊牧民の定住化に関しては、改革全体の意図と当該地域における定住化の実際とを共著書で明らかにした。加えてバルケスィル中心都市に関しては、『資産台帳』をはじめとするオスマン史料を用いて「19世紀中葉オスマン帝国における人口と世帯:西北アナトリア、バルケスィル郡の事例から」落合恵美子・小島宏・八木透編『歴史人口学と比較家族史』早稲田大学出版会(出版準備中)および「タンズィマート時代諸都市における新都市開発:バルケスィルの字形から」(トルコ語)『ミュジュテバ・イルギュレル先生退官記念論文集』(イスタンブル、マルマラ大学、印刷中)との中で、アナトリアの他地域との比較からバルケスィルにおける住民の人口動態および世帯構造の特徴を明らかにした。同時に、19世紀中葉バルケスィル中心都市における人口増加および火災荒廃に伴って立案された新都市開発計画を明らかにした。 他方、ビャーラ・チェルクヴァ町に関する『収入台帳』および「土地関連私家文書」については史料の解読がほぼ完了したが、ブルガリア語部分に関してはなお検討を要する部分が残されており、史料集としての出版にむけて鋭意準備中である。『収入台帳』および複数の土地証文を見る限り、オスマン支配下で「ムラト・ベイ村」と呼ばれた同町は、比較的豊かな目作農か主体の農村であったこと、加えて「疑似ワクフ地」とみなされる耕作地に関しては国家的土地所有原則が適用されていたにもかかわらず、事実上の売買が行なわれていたことが明らかとなった。
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