アメリカ合衆国南部奴隷制下に見られた、いわゆる「奴隷耕作地」の一種である集団/共同奴隷耕作地の果たした歴史的役割を析出した。南北戦争前のアンティベラム期(1830年頃〜1860年)は奴隷制が最も繁栄した時代だったが、この時期に奴隷所有者、特に利潤極大化を図ったプランター階級は経営の合理化、効率化を推し進めた。その一端は、例えば「共同炊事場」や共同の「燃料材置場」などに表れた。こうして再編制されたプランテーション経営体制の中にあって、奴隷労働管理システムの重要な役割を果たしたのが集団/共同奴隷耕作地であった。 従来の奴隷耕作地研究は家族単位と個人単位の耕作地の存在を明らかにしてきたが、運営に関しては奴隷主が一切関与せず、奴隷たちが自律的に活動したと解釈している。だが、新たに見出された形態の集団/共同奴隷耕作地は、利潤追求に余念のないプランターによる政策的運営下にあったことが析出された。彼らの残した奴隷労働日誌、帳簿、覚書等の史料、元奴隷に対するインタヴュー記録からはいずれも本奴隷耕作地への奴隷主の関与が確認される。 プランターは、集団/共同奴隷耕作地をプランテーション耕地中の1つの畑として耕作奴隷の昼間労働の対象に組み入れ、奴隷小集団編制によるローテーション労働を行った。この方式は強制労働時間帯に自己利益に直結した労働を奴隷たちにもたらした。一方、プランターにとっては自身の畑が奴隷耕作地と隣接することから、奴隷の精力的労働を自身の畑でも期待することが可能となった。集団/共同奴隷耕作地には、報奨制導入、労働能力・性・年齢等一定基準による個々人への土地割当制、個人耕作地との併用など個々のプランターによる種々の工夫も検出された。また、本耕作地と類似したプランテーション耕地中の全奴隷用菜園・野菜畑も潜在的・擬似的集団/共同奴隷耕作地といえる点も析出した。
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