現大阪平野全域を対象とし、考古学調査の成果、ボーリング資料および自然・人工の累積地盤沈下量などを用いて1m等高線による7〜8世紀の大坂地形図を作成した。そして、当該図をベースマップとして、難波京周辺の歴史的景観、難波京の構造、難波京周辺の交通大系、河内平野の洪水対策用の人工水路や大坂平野全域に分布する条里型地割の分布特性と施行年代等について考察した。主たる研究成果は、以下に記述するとおりである。 (1)河内南部から半島状に突出する上町丘陵の東側には、草香江と呼ばれた広大な入江が生駒山の麓まで広がる。大坂湾に近接する遺跡の検出高度から判断して、当時の海面高度はT.P.マイナス80cm程度と考えられる。 (2)草香江の当時の水深は、上町丘陵に近い西部で4〜5m、生駒山地に近い東部では6〜7mであり、丸木船を発展させた吃水の浅い当時の木造船の航行には十分な水深であったと考えられる。 (3)難波京は、7世紀後半の天武天皇の時代に宮域や条坊街区などの基盤整備が進められ、8世紀の聖武天皇の時代に完成したと考えられる。その規模は、当時の地形条件から南北4.2km、東西2.1kmと南北に細長く、藤原京や平城京と比較するとはるかに小さい。 (4)河内平野の洪水対策のために8世紀代に人工的に開削・された溝跡の中で、行基による次田堀川、延暦4年(785)の三国川への導水工事跡や延暦3年(784)の和気清麻呂による河内川の開削跡は、空中写真やボーリング資料からその位置を明確に把握することができた。 (5)条里型地割の分布地域は宝平野中央部に広がる草香江などを除いた当時の居住可能域とほぼ重なる。その施行年代は、従来9世紀以降と比較的新しく考えられて来た。しかし、近年、摂津国の住吉郡や河内国の丹比郡、高安郡、讃良郡で考古学的に8世紀代の施行であることが確認されており、地形条件から開発不可能であった地域の条里を除いて、条里型地割の施行は8世紀代と考えられる。
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