この研究では、広く発掘された百済の集落遺跡を用いて、内部構造を検討した。その結果、漢城期(3世紀後半〜A.D475)では、当初から王城-中間層の集落-一般集落という階層構造が成立していた。 一般集落では大型や六角形の竪穴住居は少なく、鉄器も極めて少なく、中国陶磁もない。 中間層の集落では、〓沙里遺跡や自作里遺跡が示すように、集落の中は直線的な溝で区画され、方形環溝も首長層の居住地の一角に設けられ、非日常的な聖なる空間と、世俗的な空間が分かれて一対をなす。竪穴住居は平面六角形で突出部を持つ大型・超大型が多くなる。鉄器も豊富で、竪穴住居からも武器武具が出土し、わずかだが中国陶磁もある。 王城(風納土城や夢村土城)は巨大な城壁で囲まれ、道路が走り、国家的な祭祀施設がつくられ、超大型の礎石建物もみられる。竪穴住居は大型の六角形住居が多く、中国陶磁も大量に出て、中間層以下の集落とは顕著な格差を示す。 熊津期(475〜538)は、艇止山遺跡の分析からみると、首長層では竪穴住居が使われず、掘立柱建物へ変化しはじめる。 泗〓期(538〜660)は都城で条坊制が成立し、大区画の中に単位区画が設定される。各単位区画はそれぞれが倉庫を持ち、高い自立性を獲得している。漢城期以来、倉庫は全体管理だけでなく、単位集団や住居での管理もみられる。 これは、百済の中でも南部地域である湖南地域の全体管理が強い様相とは異なる。こうした単位集団の自立性の高さが、百済の国家形成と発展の基礎を支えた。
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