本研究では西日本の島嶼部に立地する積石塚墳を対象とて、島嶼部に積石塚墳が成立した要因、展開の過程、相互の関係性の有無、各地域内での他の墓制との関係など、多方面から検討を進めることにより、互いに離れた地域にみられる類似現象の解明を目指した。 調査では、前年度に着手した鹿児島県長島町歴史民俗資料館に所蔵されている明神・指江古墳群出土遺物の実測図の作成および観察・写真撮影を継続し実施した。遺物の性格の検討を進めたところ、明神古墳群出土の鉄鏃は、韓国や、日本列島各地域のものとの共通性がうかがえ、古墳文化の周縁地域に当たる長島も、広範なネットワークの中に組み込まれていたことがうかがえた。また、各資料の所属年代の検討を行った結果、明神・指江古墳群が営まれた時期は、従来の年代観よりも古くなりそうであることが明らかになった。 これまでの調査成果を取り込み、長島をはじめとする西日本の島嶼部に立地する積石塚墳を素材とした分析と考察を行った。いずれの積石塚墳においても、階層性が示されていることを読み取れ、その状況は列島の各地域に見られる古墳群のあり方と同様であると言える。長島においては、この地域に勢力を有していた人々の階層表現の一つとして、積石塚墳が用いられたと想定した。他の島々では積石塚墳内に種々の階層性が表現されていることから、他地域に見られる古墳群と同様の意味を有していたと考えた。島嶼部における積石塚墳は、古墳文化の周縁地域において、基本的には島および島を含む在地の人々の手によって、土の墳丘と置換可能なものとして、各地の積石塚墳相互の関係よりもむしろ、島を含む地域の関係性の中で成立し営まれたものと解釈した。なお、「土」と「石」の置換に際して、島という立地が大きな役割を果たしたものと想定している。
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