14世紀から18世紀の、23個所の集落跡から検出された作物種子、17個所の畠跡、6遺跡から出土した鉄製農具の検討から、次のことが明らかになった。 (1)14世紀から18世紀初頭の遺跡から鋤・鍬といった鉄製農具が出土しており、アイヌ民族は18世紀初頭まで鉄製農具を使用した広幅の畝からなる畠を造成していた。 (2)該当期の畠跡は、アイヌ民族によったことが明らかな土地の傾斜に関係なく各方向に畝を造り、同じ台地上で場所を変えながら小規模な畠を継続していたものと、東北地方のアラキ型焼畑との関係を示す、傾斜地に火入れを行い傾斜に沿って縦畝を造成したものや、溝だけの畠を造った二つのグループに区分でき、後者はアイヌ民族によったものではなく、東北地方北部から渡道もしくは季節的に渡道した和人によったものと考えられる。 (3)炭化種子が出土した大部分の遺跡からヒエとアワを主とした14種類の作物種子が出土しており、特にヒエが多く出土し、アイヌ民族の伝承にもあるようにヒエとアワが重要な作物であったことが判明した。 (4)擦文文化期にはアワとキビが主要作物であったが、14世紀以降主要作物からキビが脱落して、ヒエとアワが主要作物となるが、その背景には気候の悪化があったものと考えられる。 (5)18世紀末には川原端で、農具を使用せず木の股や刀子で土を耕して畠を造った姿が描かれているが、その要因として「シャクシャインの戦い」以後の松前藩によった刀狩り、鉄の供給制限、鉄製品の粗製化と、交易形態が「場所請負制度」に変わり、アイヌ民族の労働力の収奪が行われた結果と考えられる。
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