研究課題/領域番号 |
17520544
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研究機関 | 首都大学東京 |
研究代表者 |
杉浦 芳夫 首都大学東京, 都市環境科学研究科, 教授 (00117714)
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研究分担者 |
原山 道子 首都大学東京, 都市環境科学研究科, 助教 (00117722)
石崎 研ニ 奈良女子大学, 文学部, 准教授 (10281239)
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キーワード | 中心地理論 / ナチ・ドイツ / Christaller / 地理学史 |
研究概要 |
Christallerの中心地理論が、ナチ・ドイツの東方占領地集落再編計画において集落配置のモデルとして受け入れられるまでの道は、決して平坦ではなかった。1937年に国土調査全国共同研究所の中に、Christallerを主査とする中心地研究グループが設置され、そこで中心地理論の東方占領地集落再編計画(当時はまだ、ポーランド占領前)への応用の是非が議論された。グループメンバーの中で、主な論客は、間もなくしてNeue Stadtを著すGottfried Feder(かつてのナチス高官で、当時はベルリン工科大学建築学科教授)、Friedrich Bulow(経済学者)、Walter Geisler(Schluterの弟子で、若い頃に都市地理学の分野で名を成した地理学者)の3名であった。このうち、大都市からの人口分散を図るために、その受け皿として、形態的・景観論的には中世都市に倣った、内部が3階層の商業中心からなる地方小都市の建設を主張したFederは、中心地理論を支持したように見受けられる。しかし、Bulowは、経済立地論が資本主義体制下での抽象的な理論ゆえ、その流れに樟差す中心地理論は、ナチズムとは相容れない理論として厳しく批判する。また、同じ地理学者であるGeislerは、現実の集落立地は、人口密度、地形条件、交通路などに規定されていると、理論構築の前提条件を問題視し、均質空間で演繹された集落の六角形構造を批判するとともに、都市形成における工業活動の重要性を指摘する。こうした批判に対して、Christallerは、1940年代に入ってから発表する論文において、論調を親ナチ的に変えながら、また理論そのものも、現実への応用を考えて修正を図る。論調の点では、ゲルマン民族の歴史との関係で中心地理論誕生を位置づけ、Folksgemeinschaft(民族共同体)といったナチスが好んで使用した用語を論文中に散りばめる。また、理論の現実への適用を考慮して、中心地分布が地形の制約を大きく受けることを強調しつつ、供給・交通・行政の3原理が同時に作用した揚合を仮定した、混合中心地システムを提案する。
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