1.東亜同文書院の「大旅行」調査は1907年から最終学年(3年生)によって行なわれ、1943年までつづいた。参加学生は約4500人.総コース数は約700で、中国本土を中心に東南アジア、満州、一部ロシアまで広がった。満州は1910年から「大旅行」コースがみられ、中国本土に比べれば、そのコース数は少いが、ほぼ毎年1〜2コースが設定された。とりわけ、満州事変発生年とその翌年は、中国本土へのビザが発行されず、満州に集中した。 2.満洲での調査対象は多様であるが、農業調査や農業への報記録はその中でも目立ち、農産物三品や生産条件、生産概要、輸送状況、農家状況などに関心をもち、調査を行ったり、日本人や漢人、さらには朝鮮人の入植問題などへの考察もみられる。 3.それらをふまえ、農地開発をみると、(1)清朝成立後、満州族以外の農業開発は基本的に認められず、それが緩められたのは1870年代であり、20世紀に入り、山東、直隷、山西各省からの移民が増加した。(2)当初は南満州への入植が中心であり、それが長春、さらにはハルピンへと飛び地的に拡大した。(3)そのさい、東蒙古よりは吉林の東南部での朝鮮人による水田開発がすすんだが、清朝の宮や漢族による妨害もみられた。(4)大正期には日本人の移民がみられるようになった。しかし、当初南満へ入植したのに失敗が多かった。満州の風土への無知、移民目的が日本での人口問題で農業目的が明確でなかった、などを明らかにしている。
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