「里海」という概念は、狭義でいえば地先の海で、海辺の村が浅海の海産資源を活用していた。浅海や磯の海産資源は流動性がすくなく採取が中心となる。今回の調査では地先の資源利用として、アマモなどの海草やホンダワラ類の海藻について、中部瀬戸内海の芸予諸島の広島県尾道市因島町重井、同向島町立花などで調査した。島懊は傾斜地における畑作栽培が中心で、山の採草地も少なく、アマモは肥料の中心として利用された。さらに立花は花崩岩の崩落土壌で、アマモは階段畑の保全や修理にも重要な役割をはたした。また重井の場合は農船での出作りがさかんで、その船で肥料を補うために遠くの海辺に、仲間と組んで採藻にでかけた。採藻については地先をもつ村と交渉し、採藻漁を支払った。採藻の経費をだすため、自家用だけでなくたくさんとって半分は販売したという。こうした肥料藻を採るのは農業主体の村で、漁業についてもなぐさみとして自給程度しかとらなかつた。多島海の芸予諸島では程度の差はあっても農業主体の村が大半をしめていた。それぞれの村は地先の大切な藻を自由にとらせず規制していた。近代の初めには採藻の税が、漁業による税より多いこともあった。 「里海」を広義でとらえると沖合までふくめた海産資源の活用が考えられる。瀬戸内海のような内海では、漁民には内海そのものを一つの「里海」と考えていた。ことに一本釣りや延縄漁などは、魚を追って時期により内海を移動することも早くからあり、出先地域との交流が必要だった。尾道市瀬戸田町北町の一本釣り漁民は、県境をこえた愛媛県今治市大上浦町瀬戸の秋祭りに鯛を奉納する。瀬戸田町がある生口島と、上浦町がある大三島の問の海は、鯛などの魚介類が豊富な海だった。歴史的な背景は不明だが、この鯛がとどかないと秋祭りがはじまらなかったといい、漁民と農民の相互交流の長い歴史をものがあたる。また北町の漁民は甘酒を瀬戸からうけとり、持ちかえって直会をした。漁民と農民のこうした海産資源と農作物の交換は、儀礼だけでなく日常的にも行われていた。同じく瀬戸田町福田の小網漁民は、大三島の沖合の海で網をひいて雑魚をとり、農民と主食の米や麦、サツマイモなどと交換していた。 地先と沖合の境界を明確に区分することはむつかしが、農民と漁民が海産資源を多様な技術により、たがいにすみわけることで「里海」の海産資源を持続的に活用してきたのではなかろうか。
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