1ドイツの13世紀から18世紀におよぶ長い歴史をもつウァフェーデ(Urfehde[報復放棄の誓約])とその制度は、大きく三つの形態と段階を経てきた。 (1)「騎士的ウァフェーデ」は、封建関係のある領主層(および封建関係にない領主層)相互のフェーデ(権利の要求を掲げた敵対関係とこれに伴う実力の行使)に由来し、フェーデの過程で捕らえられた騎士が報復放棄の誓約を捕らえた側におこなった。 次に(2)「騎士的市民的ウァフェーデ」は、市民勢力の興隆の中で騎士と市民とのフェーデ終結において交わされた。(3)「市民的ウァフェーデ(市民的都市司直的ウァフェーデ)」は、都市司直(すなわち都市参事会)にとって望ましくない行為(例えば賭け事、娼婦宿に入り浸る、言葉の暴力、不品行、悪事の疑惑・悪評など)のゆえに司直に捕らえられた市民が司直に交わした、復讐断念の誓約である。また市民的ウァフェーデにおいては、包括的抽象的に言い表わされた理由(例えば「逸脱(uberfaren)」・「違反(verhandeln)」など)でも市民は捕捉され、ウァフェーデが交わされた。 これら三形態・段階の誓約行為のうちで、市民的ウァフェーデが14、15世紀を中心に以後の時代に大きく展開し、都市・市民の社会的規律化に大きな寄与を果たした。 2この市民的都市司直的ウァフェーデの盛行は、市民の正当な告訴行為にとって障害となることが少なからずあった。このことを示しているのが、カール五世刑事裁判令(カロリーナ・1532年)20条である。これによれば、都市司直もしくは裁判官から被った拷問によって受けた損害(「恥辱、苦痛、経費および損失」)の賠償を市民が裁判所に訴え出ようとするときに、司直もしく裁判官は、これを妨害してはならない。すなわち、司直もしくは裁判官は、市民に、「ウァフェーデに助力」することによって妨害してはならない、と。本規定は、カロリーナの範本(バンベルク司教領国刑事裁判令・1507年)にはなかった規定であった。帝国の裁判所が皇帝法(ローマ法)に基づく裁判制度の改革によって、こうした弊害に対応しようとしていた一端が窺える。
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