本年度(二年度目:平成18年4月から平成19年3月)は、これまでの資料収集と整理を継続して、その公開の体制作りをすすめている。第一の資料は、日本綿糸布輸出組合文書である。同組合は1934年に結成された対インド綿糸布輸出調整団体であった系譜をもつもので、輸出規制を通して、対外通商摩擦の緩和を企図した半官半民業界団体であった。戦後は最大の輸出市場であったアメリカ合衆国との通商調整機関として政治経済的な役割を担った。同文書を通して通産省と商社側の利害調整過程からみた日米関係を考察する。本年度は、日本綿糸布輸出組合関係資料については「資料目録」を作成し、公開する。すでに輸出会館の理事からは目録の公開の許可をえており、資料のほとんどは代表者・籠谷の研究室に保管している。1946年から1982年までの記録が対象である。そして、輸出組合内の「綿布」、「毛織物」、「絹化繊」、「製品」の部門資料から構成されている。今後の資料公開を検討する。 第二は田和文書である。この資料の存在は、1999年8月に、日本紡績協会調査部の蒲池典子氏から多大なご教示をえた。田和安夫氏は、戦後の日本紡績協会の専務理事を勤めた重要人物であり、同氏の残された執務文書は、戦後の日本綿業の復興と対米通商摩擦についての貴重な資料となっている。すでに故人となられたが、生前にインタビューを試みた時に、膨大な個人用執務文書の存在を教えていただいた。これまで十分に検討されてこなかった戦後の日米通商摩擦問題について、紡績業界団体から観た状況把握を可能にするものである。資料の一部は日本紡績協会を通して、大阪大学に寄贈されたゆえに、本研究代表者がマイクロ撮影した資料群と照合して、「田和文書」目録を作成したい。中心となるのは、日系アメリカ人ロビーストのマイク正岡との往復書簡である。日本製品の輸入に制限を加える法案形成の過程が克明に描写される。その成果は2006年8月の国際経済史学会(ヘルシンキ)で一部を公開した。 三輪常次郎翁は、愛知県名古屋市にて、綿布問屋として経営を開始した「服部商店」の経営に従事した経営者であった。明治中期に服部兼三郎によって創業された同商店は、その後継者の三輪によって拡大した。本来、木綿問屋業が織布生産に多角化し、あわせて加工綿布生産に積極的に乗り出した。そして戦後は豊川軍工廠の技師を迎え入れ、薬品やレンズ生産の企業へと多様化した。キャベジン、コルゲンといった製薬企業である、現在の「コーワ(興和)株式会社」の姿がここにある。興和株式会社の三輪隆康会長は常次郎翁の三男であり、これまでに聞き取り調査をお願いしている。隆康会長は1960年代の日米繊維交渉の当事者であった。一企業の視点から戦後の日米関係を考察することを計画している。すでに資料の整理が完了し、同文書は1913年から1963年まで記録することが判明した。戦前期の文書も含まれていりことから、通史的論考を代表者の勤務する人文科学研究所の紀要『人文学報』(年二冊発行)に連載したい。
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