1950年代のアイゼンハワード政権においてリチャード・ニクソンは副大統領であった。ニクソンは1960年にジョン・F・ケネディ候補に、大統領選で負ける。しかし、ニクソンはヴェトナム戦争中の68年に、大統領に就任した。ニクソンは、繊維産業が集積する南研部の票田を確保するために、外国からの繊維輸入を制限することを公約にあげた。1950年代後半から60年代初頭にみられた日米繊維摩擦が、ここで再熱した。ニクソン政権は、日本をはじめ、韓国、台湾、香港に、繊維製品の「自主規制」を求めたが、アジア四国は強く反発して、通商摩擦の沈静には約3年を要した。しかし、こうしたアメリカとアジアの摩擦が、1971年のニクソン・ショックの背景となる。突然の訪中とドルの金交換停止であった。 他方、今回公開された「輸出繊維会館」所蔵の各輸出組合(綿糸布、絹化繊、毛織、製品)文書がしめすところは、日本外交の限界面であった。すでに日米の通商摩擦は綿糸布から化合繊へと、その対象をかえていた。そして歴代の首相(とくに池田、佐藤)は、アメリカ合衆国大統領の輸出規制案を飲み込む政治姿勢を用意していた。しかし、そうした繊維業界に加えられるであろう規制策は、首相の口から側近に漏れることはなかった。日本の繊維業界が大阪に集中し、かつその経済的な「体力」を過信した政治外交は、60年代から70年代の日米関係に動揺をあたえ、かつ日本の繊維業界もその輸出競争力を失う結果となる。こうした歴史の分水嶺を語る資料を、今回の研究企画ではすべて整理した。
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