近代ドイツにおける教育は、19世紀末のドイツ統合を前提として、国民国家形成あるいは国民統合の手段と見なすことができる。その傾向はすでに1900年代から始まり、西欧リベラル派、社会主義、保守主義のとの思想的対決を通して次第に「国民」概念が定着してきた。しかし「国民」概念が明確な輪郭を持って現れるのは、1930年代以降のナチ・ドイツによる支配下と考えてよい。ナチ・ドイツ支配下においては、帝国教育省が設置され、全ドイツにおいて画一的な教育制度、教育課程が実施されるに至る。しかし、その一方で「国民」概念から排除されたユダヤ人、ジプシー、障害者等のマイノリティーは、教育制度から排除されることになった。 とくに本研究の最終年度にあたる平成19年度においては、従来の教育学研究において焦点の当てられることのなかったこれらのマイノリティーを研究対象として取り上げ、ワルシャワ・ゲットーにおけるユダヤ人の教育的経験、レーベンスボルン計画とその子どもたち、「生きるに値しない生命」とされた障害児の教育について研究を行った。1940年代、ワルシャワ・ゲットーにおいては、閉鎖された地域の中でユダヤ人教師たちが非合法の教育活動を展開していたことが、いくつかの日記から確認できた。また同じく1940年代、優生思想に基づき「第三帝国」の将来のリーダーを計画的・組織的に養育する「レーベンスボルン計画」が実行された。これらの事例は、「民族衛生思想」として展開した優生思想と「国民」統合思想の融合から帰結した歴史的産物と言える。 近代ドイツにおける教育は優生思想と国民概念が結晶化していく過程を忠実に反映しており、そこにおいては政治的理念が人間的な営みとしての教育、そして子どもたちの学びの経験を変容して過程を認めることができる。
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